マックスとの会話
昨晩、2ヶ月ぶりに幼なじみのマックスと語らいました。
非常に楽しい議論を交わすことができたので、その断片を書き記しておきます。
はじめに:考えず書くということ
昨日、談話しているときに絵を描いていました。
といっても、別に集中して描いてるわけではなく話をしながらだらだらと描いていたのですが、その絵はマックスや私の母にも好評でした。
何より、描いててすごく楽しいんですよね。
考えず、自分のイメージのままに何かを描くということが今の自分には必要だったんだと思います。
ですから、しばらく文章の方も自分の気の向くままに書いてみようと思います。
ひょっとすると文章おかしいところもあるかもしれませんが、ご容赦下さい。
表現の限界に挑戦する
絵によって表現するには、キャンバスに絵を描かねばならない。
文章によって表現するには、文字を使わねばならない。
しかし、本当にそうなのか、ということを議論しました。
マックスの話によると、ある画家は、ただキャンバスを突き破ったものを作品として展示したそうです。
キャンバスに絵を描かねばならない、という常識を打ち破ったのです。
昔だったら「わけがわからない」と一蹴していたでしょうが、今はなんとなく理解できます。
ただ、私がもしその画家なら、突き破ったキャンバスの奥にある壁に絵を描きたいと思いますね。
彼は、画家であるよりも芸術家であることを選んだ気がします。
もちろん「画家」なんていう括りをする時点で常識に囚われているのかもしれませんが。
常識とは各々の人が持つイメージの最大公約数である
辞書を読めば、「冷蔵庫」の意味が書いてあります。
しかしそれは本当に自分のイメージする「冷蔵庫」を表しているのでしょうか。
おそらく、誰のイメージとも違うと思います。
マックスの言葉を借りれば、辞書に載っている言葉の意味についての記述は「最大公約数」なんです。
言葉に対するイメージは、一人一人微妙に異なるわけですが、その共通認識の部分を集めたものが辞書の記述なんだと思います。
つまり辞書に書かれていることは、多くの人のイメージと概ね一致するものの、完全に一致することはないわけです。
同じように、「常識」というものも、多くの人が「これはこうである」という共通認識があるから成立するのだと思います。
常識や先入観は近似である
創作活動をするときに、よく「常識に囚われるな」と言いますが、常識や先入観というものはそれほど悪いものなのでしょうか。
例えば、ロボットは見たことのない携帯を見たときに、色、形などとデータベースを照合したりX線、赤外線、電磁波その他諸々を利用してそれが携帯であることを認識しようとします。*1
しかし、我々人間は見たことのない携帯でも、それが携帯っぽかったら(これが先入観)「携帯」と認識します。
携帯一つとっても、認識処理のプロセスの違いは歴然としています。
これが「街中を歩く」といった動作を行うときに、ロボットと人間との間の計算コストの差ははかりしれません。
このように、先入観というのは認識処理を近似的に行ってくれる素晴らしいものなのです。
ところが、おわかりだと思いますが見たものが携帯っぽくなかったりあるいは携帯っぽいけど携帯でないものを見た場合は人間はエラーを起こします。
すなわち「誤認識」します。
もしロボットのように、多角的に情報を取得すれば、こういった誤認識は減るでしょう。
だから人間も、たまには先入観を捨てる必要があるのだと思います。
常識についても同じような議論ができるので省略します。
言葉の四則演算はできるのか
上の方で「言葉の最大公約数」という話をしましたが、じゃあ言葉の最小公倍数というものはあるのかな? という疑問がわきました。
マックスと一緒にあれこれ悩んだのですが、非常に難しい。
言葉というものは、それの意味を為すいくつかの要素に分解できそうだから、最大公約数という言い方がなんとなくしっくり来たのですが、そもそもこれだって正しい表現ではないでしょう。
そもそも言葉って、四則演算ができるのでしょうか。
はてなwordlinkのように、言葉同士を連結させたり連想したりすることはできても、それ自体に数学的な演算子を用いて何らかの「計算」をすることが可能なのでしょうか。
例えばベクトル積*2は、きちんとした定義があるからこそベクトル×ベクトル=ベクトルという式を成立させることができるわけで、決して何の考えもなくスカラーと同じように計算できるわけではありません。
同様に、言葉の四則演算についても何らかの定義付けは必要なんだと思いました。
おそらくこのような研究をやっている言語学者がいるでしょうから、ちょっと探してみたいと思っています。
どなたかその手のことが書いてある本を知っていたら教えて下さい。